オピニオン

オウム真理教の死刑が執行されて感じた、死刑制度に反対する理由3つ

月

死刑制度について賛成か、反対かと言われたら「反対」だ。

昔は「賛成」だったんだけど、ひとの考えは変わるもんだね。

 

わたしが中学生のとき、こんな社会の授業があった。

 

「”死刑制度”についてどう思いますか?賛成か反対かグループに分かれて意見を述べてください。」というものだった。

 

グループは自分の意見にかかわらず、先生によって賛成と反対グループを適当に分けられてしまって、わたしは「賛成派」グループだった。

当時のわたしも死刑制度には賛成だった。

 

なぜ賛成だったかというと、自分の大切なひとを殺されてしまったら相手に殺意がわくのは当然だという感情からだ。

救われない遺族のためにも命をかけて罪を償うべきだと思っていた。

同じ賛成派のグループの子たちもそんなような意見を述べていた気がする。まあ感情論だわな。

 

一方反対派はというと、人間は法のもと平等に裁かれなくてはならないのに、「社会がひとを殺す」という行為があってはならない。という意見を述べていた。

殺される権利はない、とかそんなことを言っていたような気がする。

 

当時は反対派に理解ができなくて、賛成派が圧倒的に正しいと思っていたけれど、いま思えば感情論で話す賛成派とちがって反対派は建設的な意見を述べている子が多かったような気もする。

 

そして当時から10年以上経って、わたしは反対派の言っていた人間の気持ちがわかるようになった。

 

それは、社会によってひとが殺されてはならないというのもあるんだけど、自分の哲学的な考えが変わったことが大きい。

わたしは死刑制度には反対で終身刑、つまり無期懲役で罪を償ってほしいという考えに変わった。

 

その理由をこれから説明していこうと思う。ただこれから話すことはわたしの哲学や感情に基づくもので、法律や現実的な税金の話とか数字的は話は一切しない。

死ぬことは逃げること、罪は生きて償うもの、死刑は社会の殺人この3つがわたしの理由だ。

 

なぜ反対派になったのか?

死んだら全てから解放されるから

死ぬということは、すべてから解放されることだとわたしは思っている。

 

死んでしまえば自分から、自分の罪から、被害者から、被害者家族から、社会から逃れられるじゃないか。

それってちょっとズルくない?って思う。

 

死刑囚は自分が死を強要される日がいつ来るかはわからないからその辺は特殊だけど。

死刑判決を受けたらあんな罪を犯さなきゃよかったって思うのか。やっぱり生きたいって思うんだろうか。

 

死刑囚が死んだその日から被害者遺族は赤飯炊いて明日からまた笑顔で暮らせるね、なんてなるのか。わたしならならない。

むしろ、死んだことによって逃げられたと感じる。

わたしだって家族が殺されたら殺意はわくと思う。でもどんな理由であれ、ひとを殺すことは許されないから死刑制度に委ねるんだろう。

 

だけど死ぬなんて逃げることと同意だから、死刑が一番罪が重いというのにはちょっとわたしの考えとはちがう。

 

生きていることの方がよっぽど難しいから

まだ人生を24年しか生きていないけど、わたしは比較的「死」について考えることが多かったと思ってる。

ウツっぽくなりやすくて、よく「死にたい」と感じていた。

 

でも死ぬ勇気さえあれば死ぬことは案外簡単だと思う。死ぬ方法なんていくらでもあるし、わたしなら死ぬのに適している農薬がわかるし、時間なんてそんなにいらないんだよね。

でも生きつづけてきてわかったことが一つある。

 

死ぬことよりも、生きることの方が何倍も大変だってことだ。

 

生きてりゃいいこともあるけれど、なんで生きてるんだろうって鬱々と考える日もある。

そんな日は「死のう」と決めることよりも、「生きたい」と思いながらなんとか自分を奮い立たせて生きることを選ぶ方がよっぽど苦しいんだって気づいた。

 

死刑から話が逸れてしまったけれど、つまり、死ぬことはずるい。生ぬるい。

生きろって思う。生きることの方が何倍も苦しいんだぞって思うから、わたしは死刑には反対だ。

 

罪は生きて償うものだ。

社会にもう一生出てくることはなくて、罪を償い、被害者とその遺族に疎まれ、社会からも疎まれて生きていればいい。

残りの人生の数十年を生きる価値を見出せないまま生きつづけていてほしい。そして死んでほしい。

 

それがわたしの思う最上級の罪の償い方だと思っている。

(わたしのいう無期懲役は重無期刑=終身刑に近い。重無期刑とは仮釈放の認めない無期刑のこと。導入はされてない。)

 

死刑は社会による殺人行為だから

中学生のとき、クラスの女の子が発言したこの「社会による殺人」という意味に気づいた。

具体的な説明はむずかしいけれど、法によって裁かれるのは正当化されることに違和感を感じるのだ。

 

オウム死刑囚が全員死刑執行になったが、なんとも不快だった。(乗り物に酔ったように気持ち悪くなったという意味での不快感)

社会によってひとが1日に何人も殺されるそんな社会に気持ち悪くなったのかもしれない。

平成にひと区切りをつけたかったんだろうか?いつの時代だよっていうことが生きてると起こるもんだなと一周回って感心してしまう。

 

大罪を犯したからいっぺんに処刑しましたー。なんてもう理解の範疇を超えていて、それが許されるだなんて「なんだこの社会は?」と思ってしまった。

 

 

でも遺族の気持ちは最もだと思う。そしてわたしの想像を超える憎しみと悲しみを背負って生きているのだと思う。

やっぱり自分が当事者にならないとわからないことって多いんだろう。

もしかしたら当事者になったらまた死刑制度に賛成してるかもしれないし。

 

とにかく今は、わたしは死刑には反対だ。

 

松本智津夫元死刑囚が処刑された日から、死刑についてモヤモヤしているところがあったので世間と自分の考えのちがいをまとめた。

別にだからって社会が変わるわけでもないんだけどさ、わたしの考えが現実的なのかって言われたらきっとそうでもないんだろうけどさ。

 

生きてれば考えって変わっていくし、社会のおかしなところに気づき始めるし、こういうことはアウトプットした方がいいかなと思ったので。

乱文なのに読んでくれてありがとうございます。

 

 

余談だけれど、なぜ「罪は生きて償うものだ」と思うようになったのかは、あさのあつこの「No.6」という小説を読んだからでして。

「罪は背負って生きる」ことを教えてくれた部分はこのストーリー最大のネタバレになるので割愛するけれど、気になる人は読んでみてほしい。

面白さは10年保証します。では。

ABOUT ME
ゆかたん
ゆかたん
ゆかたん農学校学長。シティ系農業ガールブロガー。 大学と農協でつちかった経験と知識を武器に、農業知識をやさしくアツく語ります。 北海道から産地直送でお届け中です。