生き方

認知症患者の家族になったら介護の現場の人を尊敬するようになった

先日認知症になってしまった大切な人に会ってきた。祖母だ。

 

認知症がかなり進行しているのは知っていたので、おそらくわたしのことも忘れられていることは覚悟して会いに行ったのだった。

 

んで、やっぱり忘れられてた。「わたしに孫はいない。」と言われてしまった。笑

 

それでも施設に入っているのもあって清潔感はあるし、やせすぎず太りすぎずの健康体でホッとしたのは良かったけど。

歳だから歩くのはすこしつらそうだけれども一先ず安心した。

 

ただ、認知症が進行し続ける人間を見たわたしは、残酷な生き方だと思わずにはいられなかった・・・

 

忘れ続けた人間のその先にはなにがあるのか

もう自分が何者だったかも思い出せないのであろう、祖母。

自分の息子も孫も亡くした夫も思い出せない。

 

食事をした記憶はなく、トイレが何かも分からないからオムツをはく。

もはや赤ん坊と同じ状態なのだ。

 

今までの人生がリセットされてしまったように見えた。

 

長生きしてもすべてを忘れてしまったまま最期を迎えるのか?

それでも最期の瞬間、「生きててよかった。」と思うことはできるんだろうか。

 

きっと、何がしたいとか誰に会いたいとか思うことはいまはもうない。

何を思えず生きるなんて残酷のひとことしかでない。

 

認知症の家族は何を思って生きるのか

わたしは自分のことを忘れられているなら新たに覚えてもらおうと思っていた。

結局それは浅はかな考えだったのだけど。

 

どうやら認知症が進むとぼーっとする時間が増えるらしい。

普通の人間の感情が感じられないのだ・・・機械的に生きる人間に見えてしまったのが哀しかった。

 

ただ、自分が施設にいるという感覚はあるらしく、周りの大人は全員施設の人間だと思っているらしい。

なので家族でも初対面かのような挨拶をされる。

「よろしくお願いします。」「ちょっと行ってきます。」と声をかけられる。

 

じゃあもう、それならそれでいいとわたしは開き直ったのだ。

祖母を見守ろう。

わたしが今までの思い出を忘れなければいいんだと思うことにした。

というか思うしかなかった。

 

行きどころのない気持ち

神様なんて信じていないけれど、神様を恨みたくなるような気持ちでいっぱいだった。

悪いことなんて何ひとつしてない人間だ。

 

認知症の原因には高血圧などの生活習慣などがあるみたいだけれど、わたしが知りたいのはそんなことじゃないんだ。

そんな惨いことをしないでほしかった。

 

認知症は病気らしくない。体は至って健康なのだ。

ただ覚えられないだけで。

本人も鬱状態なわけでもなし、普通に介護を受けている。

だからむごい。

 

とどのつまり、過去積み上げてきた時間が失われたのがショックで仕方なかった。

無償の愛を受け、愛し続けた人間に忘れられるほどつらいものはない。

 

介護に真正面から向き合える人を尊敬する

自宅で家族の介護を行っているひと、介護士のみなさん。

介護にかかわるすべての人間に尊敬の念が生まれた。

自分が当事者になっても真正面から向き合うことの難しさを実感した。

 

なんて言ったってメンタルが追いつかないのだ。

色々考えちゃうし、現実を受け入れることだって容易ではないのだ。

そんな厳しい現場で働き続けられる人に尊敬の年しか抱かない。

 

ありがたい。逃げている自分が卑怯に感じるほどに彼らは強い人間だ。

 

わたしもちゃんと向き合わないとなあと思わせられた1日でした。

ありがとう。