カメラ女子ゆかたん(@AgriBloger)です。
カメラをはじめて気づいたことは、センスのよさは圧倒的な経験に基づくものだってことで、子供の頃毎日絵を描いていたわたしはセンスがいいとよく言われてたけど、それは自分の経験や参考にした絵をアウトプットしていたからだ
子供のときの作業量は圧倒的だった
だから今の自分はまだまだやれる— ゆかたん|農業女子ブロガー (@AgriBloger) 2018年11月6日
昨日ふと考えたことがあります。
カメラをはじめてからたくさんの写真を目にするようになりました。
そしてカメラ仲間ができるようになりました。
そこで気づいたのは、写真がうまい人は他の人よりも圧倒的に撮っているってことです。
それに付随して思い出したことがあります。
わたしは昔、記憶のない頃から絵を描いていました。その生活は中学生まで続いて、10年ほど描きつづけたわけですが。
自分ではまだまだだ、と思って描いていたけど周りの人は「上手だね、センスがあるね」とよく言ってくれました。
それはわたしに元からセンスがあったわけではないのです。
わたしの作業量が多かったからです。
淡々と描いて、反省して、改善する。
そしていろんな人の絵を見ました。街中にあふれるデザインを参考にしました。
いいと思った作品は自分に取り入れていた、ただそれだけです。
そしてそれをくり返すことは何の苦でもなかったし、描きつづけることが努力だと思ったことは一度もなかったような気がします。
だからどの分野においても「センスがいい」と言われるひとはたくさんいますが、そういうひとたちは影で紛れもなく努力してるってことです。
そして継続してるひとです。
そもそも努力を努力と思ってない人間がその分野のトップにまで登りつめることができると思いませんか?
被写体やっててもすごく思う。
やっぱりセンスって、どれだけ場数を踏んだかによって溢れでてくるものな気がする。
なので影での努力を「センス」って言葉だけで簡単に片付けるのは良くないし、申し訳ないなぁと、最近思い始めた。 https://t.co/jCNLEqJLEb
— ゆう/ 佐藤 優磨 (@yuu_fight2525) 2018年11月6日
だからあのひとはセンスがいいから自分はこんなもんなんだって思うのはちょっとちがいます。
大谷翔平だって野球クラブに入ったその日から2刀流の才能を開花させたわけじゃないですからね。
大人になって子供のころのような熱量で何かに没頭しつづけることが減ったように思います。
飽き性なのは元からにしても、没頭した時にかける熱量は子供のころに叶わないなあと。
その中でもカメラは久しぶりに出会えた「没頭できるもの」なんですが、それでもまだまだなんです。
でも、この感覚は久しぶりだって思えたのがうれしかったのかもしれない。
だからあの時に比べたらまだまだ自分はやれるんじゃない?って思うんですよね。
子供のころの自分が大人になった自分の背中を押してくれました。